追悼 佐藤 さん
51 小林
3月半ばの夜更けのこと、ふと思い立って外に出てみると、南の空高く大きな星が
輝いていました。
「ああ、木星だ。佐藤さんの星だ。」私は思わずつぶやきました。
木星の、明るく大きく、それでいて和らかで慈愛に満ちた光は、佐藤さんのお人柄
そのもののように感じられました。
平成30年3月4日、我らが大先輩、佐藤さんがお亡くなりになりました。
木星の観測やプラネタリウムの解説を初めとして、天文分野に大きな足跡を残された
佐藤さんですが、私にとっては大学のクラブの大先輩としての佐藤さんが真っ先に思い
浮かびます。佐藤さんほど長きにわたって私たちのクラブ(広島大学 天文学会。後に
天文学研究会と改称)に関わってくださった方はいらっしゃいませんでした。
訃報を聞いて何人かの仲間から追悼のメールが送られてきました。皆、佐藤さんと自分
との縁(えにし)を書いています。どの人もどの人も、佐藤さんと自分との間にドラマを
持っているのです。それらのメールを見ているうちに、佐藤さんは多くの人との間に深い
関わりを築いて来られたのだということに思い至りました。私も、他にすべを知りません
ので、はなはだ恐縮ではありますが、佐藤さんと私との縁を記して、追悼の文章とさせて
いただきたいと思います。
出会い
初めて佐藤さんのことを知ったのは、私が高校生の頃でした。中学3年で天文趣味に
のめりこんだ私にとって、友人から大量に譲ってもらった古い天文ガイドが高校時代の
愛読書でした。その中に佐藤さんが書かれた記事があったのです。『夜、広島の繁華街の
上にUFOのようなものが浮かんでいる。広大の屋上の望遠鏡で見てみようということに
なった。その正体はビルを下から照明しているライトが、上空の靄を照らしたもので
あった』というような内容でした。その時、広大を「コウダイ」などと読んでいた私が
数年後、その大学を受験し、天文クラブに入り、佐藤さんの後輩になろうとは、当時は
夢にも思いませんでした。
コンチワ!
昭和51年4月の下旬、私は広大天文学会というクラブに、新入生として入会しました。
当時のクラブは校舎の最上部にある、屋上へ出るための通路を勝手に占拠して部室に
しておりました。部室はBOXと呼ばれていました。入部して間もないある日のこと、BOX
に1人でいると、階下から、背広を着て黒縁眼鏡をかけた丸顔で恰幅の良い中年男性が
上がってきました。私はとっさに、「これはきっとOBの方に違いない!」と思いました。
高校時代、上下関係にうるさい運動部にいた私はとっさに起立して、最敬礼で
「コンチワッ!」
と大声を出して運動部式の挨拶をしました。それが佐藤さんでした。
あとになって、我がクラブではそんな荒っぽい挨拶はしないものだと知りました。
佐藤さんもびっくりされたかもしれません。それが佐藤さんとの初対面でした。
この本、ご存じですか?
佐藤さんはよくクラブのBOXにおいでになり、「この本、ご存じですか?」と、
持参された書類入れ用の大きな封筒から天文関係の本を出して見せ、現役の会員を相手に
熱心に話をされていました。高度で難しい話も多く、私などはただ相づちを打っている
しかありません。早く解放されないかな・・・などと心の中では正直思っているのですが、
大先輩に向かって、「私、今日はちょっと用事がありまして・・・」などと言うわけにも
行かず、佐藤さんは時間のたつのも忘れてますます熱弁を振るわれるのでした。
佐藤さんは当時、UFOのことを研究しておられました。UFOは宇宙人の乗り物と信じ
て疑わない人もいる一方、「あんな非科学的なもの」と言って一顧だにしようともしない
人もいます。佐藤さんは、そのどちらの態度をも批判されていました。UFOをもっと
科学的な態度で考えなければならない、というのが佐藤さんの持論でした。
ともあれ「この本、ご存じですか?」。忘れ得ぬ佐藤さんの口癖です。
北海道炭田地帯はさておき
佐藤さんは天文学の話をされる一方で、ご自身の学生時代の武勇伝もいろいろ聞かせて
くださいました。自叙伝の『昭和13年 早生まれ』にも、大学の備品をファイヤーストームで
燃やしてしまったり、研究室の合い鍵を勝手に作ったりして、顧問の村上先生に
ご迷惑をおかけしたという話が出てきますが、我々がBOXでよく拝聴した武勇伝をもう
一つ。
試験の時のことです。「北九州炭田地帯の問題が出るだろう」とヤマをかけていた
佐藤さんでしたが、問題は「北海道炭田地帯について述べよ」でした。ヤマが完全に
外れた佐藤さん、答案に「北海道炭田地帯はさておき、北九州炭田地帯では・・・」と
やったというのです。あとで教授から「こんなところで『さておく』やつがあるか!」
としかられたとか。
今となってはさておいたのが北海道だったか、北九州だったか、記憶が曖昧ですが、
「さておく」部分は間違いありません。
佐藤さんは、BOXで後輩と話をされるときは、 一人を相手にされるのが常でした。
何人もの後輩と集団で会話をされるということはあまりありませんでした。それでもこの
話はクラブの先輩も後輩も、みんな何度も拝聴したことがあるようで、知らない者は
いない武勇伝でありました。
コンパ
クラブでは新入生歓迎コンパやら卒業生追い出しコンパやら、その他、なんやかんやと
理由をつけてはコンパが行われましたが、佐藤さんは顧問の内海先生共々、必ずその席に
出てくださいました。私たちも、佐藤さんはコンパにお呼びするのが当たり前、という
感覚でおりましたが、20歳も年の離れた後輩のコンパに出てくださるというのは考えて
みれば、すごいことです。ほかに同年代のOBの方が出席されるわけではありません。
私だったら、若い人と話が合うだろうかなどと心配になってしまいそうですが、
佐藤さんは喜んで来てくださいました。いや、年齢の上下や立場にかかわらず、
誰とでも臆せずに、もっと言えば自ら求めて、人と接し、話をされるところが、
佐藤さんの素晴らしさだったと思います。
歓迎コンパでは、「学生番号3127081」と自己紹介するのが佐藤さんの
お決まりでした。最初の二桁が入学年度を表しています。佐藤さんは昭和31年度入学と
いうことです。新入生達は自分の入学年度とのギャップの大きさに感嘆の声を上げ、それ
を聞いて佐藤さんはとてもうれしそうなお顔をされるのでした。ちなみに私の学生番号は
「51」で始まるものでした。学生番号は大学生活のあらゆる場面で使われていました
から、いわば自分の名前代わりのようなもので、卒業生のほとんどは、その数字を青春の
思い出とともに終生忘れずにいるのではないでしょうか。
さて佐藤さんは、コンパでは、二次会、三次会と、最後の最後までつきあってくださり、
酔いつぶれた新入生をご自宅に泊めて朝食までごちそうしてくださったこともありました。
その新入生は、「あの『おじさん』の家に泊めてもらって、とてもおいしい朝ご飯をいただいた。」
などと話していたことを思い出します。まだ佐藤さんのお名前すらも存じ上げていないような
新入生を泊めてしまうほど、佐藤さんは面倒見の良い方でした。
卒業生を送り出す追い出しコンパでは、会場のお店に行く前に、大学の構内で決まって
記念の集合写真を写したものでした。その写真には毎年必ず、佐藤さんが一緒に写って
くださっています。今にして思えば、そのためにわざわざご都合をつけて、早くから
来てくださっていたのです。
私たち昭和40年代後半〜50年代くらいに在籍していたクラブのOBは、大学を出た
後もOB会と称して時々旧交を温め合う集まりを持っておりました。これはいわば、
学生時代のコンパの延長のような会でしたから、当然佐藤さんにもお声がけをして、
佐藤さんも「いつものように」出席してくださったものでした。
私が大学を出て、ずいぶん経ったある年のOB会の時のことでした。私は懐かしさ
ついでにOB仲間たちと大学を訪れたのですが、ちょうど大学祭の時期で、天文研の
後輩たちが模擬店を出していました。私にはもう顔も名前も分からない、ずっと年下の
後輩たちです。「ああ、今も昔も、大学祭でやることは変わってないな。」と思いながら
ふと見ると、その模擬店に佐藤さんのお姿があるではありませんか。佐藤さんは我々を
見付けると「君らのずっと上の先輩じゃ。」と後輩たちに紹介してくれました。この頃も
なお、佐藤さんはクラブ員たちの面倒を見てくださっていたのです。
卒業して数年程度なら、クラブに関わったり現役の会員と交流があったりするOBは
そこそこいるとは思うのですが、佐藤さんのように何十年にも渡ってクラブに関わり、
現役の学生と直接ふれあいながら後輩の面倒を見続けてくださったOBは他にいません。
クラブにとって、どんなに感謝しても感謝しきれない大恩人でありました。
アポロ月面探査と地上の望遠鏡
私が現役のクラブ員だった頃は、アメリカのアポロ計画による有人月面探査が行われて
からまだ数年しか経っていない時代でした。佐藤さんは、「アポロが月を探査したからと
言っても、それは月のごく狭い箇所を、ごく短時間で見ただけに過ぎない。地上から月を
観測することの重要性は今もまったく変わっていない。継続的に、広い視野で観測する
ことは重要なことだ。」とよくおっしゃっていました。眼視とスケッチによって木星を
観測し続けていらっしゃった佐藤さんの面目躍如たるお言葉であったと思います。
今、様々な探査機が遠くの惑星に接近して、素晴らしい画像を送って来る時代と
なりまし。しかし佐藤さんがおっしゃったように、今後とも地上から観測することの
意義は変わることはないことでしょう。
プラネタリウムへの復帰
佐藤さんは1960(昭和35)年、大学卒業と共に新たに開設された楽々園のプラネタリ
ウムに就職されましたが、同館は1971(昭和46)年8月末をもって閉鎖されてしまい、
私が大学に入った頃は広島電鉄にお勤めでした。(広島電鉄は楽々園プラネタリウムの
親会社だったそうです。)
1970年代後半になって、広島市が計画している「こども文化科学館」にプラネタリウム
が設置されることとなり、佐藤さんは再びプラネタリウムに携ることになりました。
BOXで伺う話も、プラネタリウム関係のお話が圧倒的に多くなりました。新しい投影機、
新しいシステム、新しいドーム・・・佐藤さんのみならず、天文ファンみんなの夢が
広がって行った時期でした。
1979年秋、広島市民球場では広島対近鉄の日本シリーズが行われていました。
市民球場の後ろでは折から広島市こども文化科学館が建設中で、そのプラネタリウムの
ドームの上で作業をしておられた人たちも、この日ばかりはこの「屋根の上の特等席」に
居並んで、日本シリーズを観戦していました。それがテレビに映されて、全国に放送され
たのです。「あれは、ええ宣伝になった!」と佐藤さんは大喜びでした。
1980(昭和55)年、広島市こども文化科学館は完成し、5月5日のこどもの日を期して
一般公開が始まりました。プラネタリウムも大人気で、順番待ちの人が階段にまで
あふれて長蛇の列をなしていました。開館当初の混雑が収まった頃から、私は、
佐藤さんの後輩ということで一般の人は入れない制御室(?)などプラネタリウムの
裏側を見せていただくようになりました。
ドームのスクリーンの裏側にはにはたくさんのスピーカーが配置されていて、制御室に
ある直径15センチくらいの円形のパネルに指で触れると、それに該当する位置の
スピーカーから音が出る仕組みになっていました。
開演前のドーム内には当時大人気のアニメ、 宇宙戦艦ヤマトの重厚なBGMが
かかっていました。佐藤さんが円形パネルの上を指でなぞっていくと、それに合わせて
ドーム内を音がグルグル回ります。お客さんはみんなびっくりしてあたりをキョロキョロ。
すごい迫力でした。こんなシアターで宇宙戦艦ヤマトをを観てみたい、心底そう思いました。
こうして味をしめた私は、しばしば知人を連れて行っては、プラネタリウムの裏側を
見せていただくようになりました。「オレはこんなところに入れてもらえるんだぞ、
どうだ、すごいだろう」と、知人に自慢したい、偉そうにしてみたい、という下心が
ありありでした。とっかえひっかえ何度も知人を連れてくるこんな厚かましい後輩を、
佐藤さんはいつもにこやかに案内してくださいました。きっとお忙しかっただろうにと、
今になって反省しております。
コンピュータと人間と
さて、広島市こども文化科学館のプラネタリウムは、手動でも、コンピューター制御でも
投影ができるようになっていました。今でこそコンピューターは珍しいものではありませんが、
当時はまだ超高級品でありました。コンピューターで動くプラネタリウムというのは、まさに
最新鋭のシステムだったのです。あるとき、佐藤さんに聞かれました。
「子供たちを相手に、プラネタリウムの学習投影をするとき、手動とコンピューターと、
どっちがええと思うかね?」と。
私は、「コンピューターだと思います。」と答えました。学習投影は、おそらく学校
ごとに行われるでしょう。どの学校の子供たちにも均質に学習をしてもらうためには、
毎回寸分違わず再現できるコンピューター制御の方がふさわしいと思ったからです。
手動では毎回違いが出て、平等性に欠けると思ったからです。
佐藤さんはおっしゃいました。「ドームの明かりが落ちれば、泣き出す子もおる。
投影中じっとしておれん子もおる。人は一人ひとり個性があるからのう。それに、元気の
ええ学校もあれば、おとなしい学校もある。そのときそのときの雰囲気によって話し方を
変えにゃあ、子供はついてこん。子供たちが話を理解できておるかどうかも把握して、
対応せにゃならん。コンピューターにはまた別の良さがあるが、学習投影では人がその
つど判断しながらやらんといけんのよ。」と。
人間を相手にするとはどういうことなのか、人に教えるとはどういうことなのか。
とても尊いことを、この時私は佐藤さんから教えていただきました。この教えは今に
至るまで、私の中に生きております。
クラブの歴史
21世紀に入るころから、クラブのOB会もいつの間にか行われなくなり、お目に
かかる機会はあまり無くなってしまいましたが、佐藤さんとは年賀状のやりとりなどで、
お付き合いをいただいておりました。
2009(平成21)年7月、日本で久しぶりに皆既日食が起こりました。その時、私は
鹿児島と奄美大島の間にあるトカラ列島に遠征しましたが、雨雲のために日食を全く見る
ことが出来ませんでした。一方佐藤さんは、ふじ丸という豪華客船で日食観測に出かけら
れて、「快晴、べたなぎの洋上でコロナを見ました」と書かれた年賀状をいただきました。
その時はうらやましかったり、悔しかったりしたものでした。
日食を見にトカラ列島まで遠征した時のことを紀行文としてホームページに掲載しよう
と思い立った私は、その過程で細井さんという、佐藤さんより少し年下の、これまた
我がクラブの大先輩と知り合うことが出来ました。細井さんは、1963(昭和38)年の
知床皆既日食の際の、我がクラブの遠征隊長とでも言うべき方で、知床遠征の素晴らしい
紀行文を残された方です。細井さんから当時のことをいろいろと伺ううちに、私は我が
天文クラブの歴史にも興味を覚えるようになり、これもホームページに書いてみたいと
思うようになりました。
しかし、どうやってクラブの過去の歴史を調べれば良いのでしょうか?手元には
ほとんど資料はありません。そんなとき思いついたのが、当時の先輩に直接話を伺うと
言うことでした。発足して間もない頃の我らがクラブのことをよくご存知で、私も
それなりに親しくしていただいている大先輩と言えば、それは細井さんと、そして
佐藤さんです。ということで、両先輩からは本当にたくさんのことを教えていただきました。
佐藤さんは膨大な資料を送ってくださいました。書籍・論考・写真などなど、段ボール
箱が一杯になるほどでした。しかも、その一つ一つに、「謹呈」として私と家内の名前を
書いてくださったのです。(家内も佐藤さんの後輩なのです。)本当にありがたかった
です。それらの資料を基に、私はクラブの歴史のホームページを作っていきました。
しかし、資料をいただいたとは言え、分からないことは色々と出て参ります。そんなとき
はいつもメールで問い合わせをさせていただくのですが、佐藤さんも細井さんも、毎回
懇切丁寧なお返事をくださいました。この先も、佐藤さんにはまだまだお聞きしなければ
ならないことが出てくるはずでしたが、もはやそれはかなわぬこととなってしまいました。
姫路のOB会
さらに年月が流れ、2015(平成27)年春のことです。長くクラブの顧問をしてくださった
内海先生の喜寿のお祝いで、多くのOBが先生の地元の姫路に集うことになりました。
本格的にOBが集うのは、実に久しぶりのことでした。当然佐藤さんもご出席いただけるものと
思ってお声がけをしましたところ、体調がすぐれず、遠出は無理だとのことでした。
以前にいただいた自伝『昭和13年早生まれ』でも、ご病気のことに触れては
おられましたが、まだまだお元気なものだと思っていたので、びっくりいたしました。
メールのやりとりの中では、そんな様子はみじんも感じられなかったからです。
佐藤さんは、資料を取りに家の中を動くのも大変だなどとおっしゃりながら、姫路の
会のために、ご自身が大学生であった頃のクラブの様子を書いたものを送ってくださいました。
世界初の人工衛星スプートニクが打ち上げられ、それを広大天文学会でも観測したという
お話でした。それは、我がクラブが最も光り輝いていた時期のことであり、佐藤さんが
その後長く後輩たちの面倒を見てくださるようになった端緒でもあったのだと私は思いま
した。
体調が優れないとおっしゃりながらも、佐藤さんはパソコンを近くに置いて、頻繁に
メールのやりとりを行っていらっしゃいました。私のメールにも、すぐにお返事をくださる
など、以前と変わらず意欲的に活動をされているようにお見受けいたしておりました。
私が星に興味を持つようになった中学校の頃からあこがれていた藤井さんという著名な
天体写真家を紹介してくださったのもそんな中でのことでした。藤井さんと佐藤さんは、
お若い頃からずっとおつきあいがあったのです。藤井さんから直接お便りをいただくこと
ができ、大変感激いたしました。ひとえに佐藤さんが尽力してくださった賜物でした。
謹呈
2017(平成29)年の秋のことです、私は長いこと源平盛衰記にある日食記事(1183年、
水島合戦における日食の記事。金環日食だったという。)についてあれこれ考えてきたの
ですが、それをまがいなりにもレポートのような形にすることが出来ましたので、これを
佐藤さんに読んでいただこうと思い、お送りしました。
佐藤さんは早速メールで丹念に、情報や感想を伝えてくださり、あわせて私が参考文献に
名をあげてあった天文学の先生にもこれを送ってはどうか、と勧めてくださいました。
私の拙いレポートがどれほどのものかというためらいもあって、それは未だに実現して
いないのですが、こういうところ、佐藤さんは実に積極的で、堂々とされていて、
見習わなくてはいけません。この「レポート提出」は、佐藤さんからいただいた宿題だと
思っております。
佐藤さんからはたくさんの著作物を頂戴し、その一つ一つに「謹呈」と書いていただい
たことは、先述したとおりです。大先輩から「謹呈」していただくなどと言うのは
畏れ多いことなのですが、それは著作物や論文などを人に贈るときのしきたりでも
あるようなので、そのままに頂戴して参りました。私は源平盛衰記にある日食記事に
関する拙いレポートに「謹呈」と書いて佐藤さんにお送りしました。たった一つでは
ありますが、佐藤さんにこのレポートを「謹呈」させていただけたことは、私にとって
うれしいことでありました。
お別れ
その年の秋も深まった頃、「もう、あなたの癌に効く抗がん剤はなくなりました」と
医師から告げられたという、ショッキングなメールを佐藤さんからいただきました。
これまで20年近くにわたって、たくさんの癌を何度も乗り越えてこられた佐藤さんでした。
どんなお気持ちでいらっしゃるのだろうと心が痛みました。
そのメールからまもなく、佐藤さんから電話をいただきました。私は、病気の話題は
避けなければならないと思いつつ電話に出たのですが、佐藤さんの方からその話を
切り出されました。私はどうしたらいいのかわからず、心中狼狽したのですが、
佐藤さんは次のようなことをおっしゃいました。
佐藤さんの大学の学科の後輩に、京大の教授をされた方がいらっしゃるそうです。
その方は中国(中華人民共和国?)地震局でも招聘教授として活躍されたそうですが、
こんな話をしてくれたと言うのです。
「『わしの癌は中国で国際貢献しておる』と彼は言うんじゃ。中国地震局の職員には、
癌がみつかって精神的に落ち込む人が何人もおるんじゃそうなが、そんな人に、たくさん
癌をしてもまだ死なないわしの例を話して聞かせると、元気を取り戻すんじゃそうな。」
この話をされる佐藤さんは、愉快そうでもありました。
佐藤さんとは、もうずいぶん長い事お目にかかってもおりませんでしたし、電話で
お声を聞くこともあまりなかったのですが、この日の佐藤さんの声は若々しく、電話の
向こうには、かつてクラブの部室でお話をした、あのときのままの佐藤さんが
いらっしゃる、そんな印象でした
これまで、電話をくださることはごくまれでしたから、今にして思うと、
佐藤さんは別れの気持ちを込めて直接声を聞かせてくださったのでは
ないか、そう思えてなりません。
2018年正月も、いつもの年のように佐藤さんから年賀状をいただきました。しかしそれは、
「来年は年賀状を出せるか分からない」と書かれた悲しい年賀状でした。
私は「いやそんなことはない、来年もきっと年賀状をいただける」と思っていたのですが、
3月半ば、ご家族から訃報が届いてしまいました。
佐藤さんとお別れしなくてはならない日を迎えた今、もっともっと佐藤さんにお話を
聞かせていただきたかった、もっともっと学ばせていただきたかった、そんな思いで
いっぱいです。
佐藤さんの自叙伝『昭和13年早生まれ』の一番最後に、こんな記述があります。
「佐藤健のプロフィール」追加 20 年 月 日:死亡 (読者が数字をご記入下さるようお願いいたします。) |
ここに数字を書き込まなくてはならない時が来てしまいました。
佐藤さんは、私にとっても、我がクラブにとっても、大恩人です。本当にお世話に
なりました。心より感謝の気持ちを捧げつつ、ご冥福をお祈り申し上げたいと思います。
合掌。
付
佐藤さんを追悼させていただくならば、プラネタリウムの解説者として、木星の
観測者として、天文学に貢献されたお姿をまずご紹介すべきなのですが、それが出来ない
情けない後輩です。また、追悼文をまとめるのに半年もかかってしまいましたことも、
情けない限りです。どうかご寛恕いただきたく存じます。